夜、ベランダで、セカオワを聴く


「ただいま」
大学帰りに寄ったスーパーの荷物を床に置いて、洗濯物を取り込むためにベランダに出る。窓に映るわたしの耳元で、ほたるみたいに、Bluetoothイヤホンが青く光っている。桜の季節はもう過ぎてしまったけれど、セカオワの「夜桜」が流れている。

「あの時、僕らが数えきれぬほどあると、思ってたこの春はもうあと何回来るんだろう」

 

ベランダから見える空は真っ暗になっているけれど、すこし青さを留めていた。風に吹かれたハンガーを手に取りながら、夜空の中の丸い青いところを見つめる。その真ん中では、ブローチみたいに小さい三日月が、青さに守られるように光っている。
ちょうどその時、サビに入る上昇音に連なって、ベースの低音が花火の音みたいに心臓に響いた。

 

ーこんなんじゃまるで、映画を見てるみたいだ。

 スーパーからの帰り道、ママとパパが言うみたいに、自分は「」*1に入って、大きくなったら「めいだい」に行くんだと思っていた頃のわたしに、いまの私を見せてあげたらなんていうだろう、とふと考えていた。
不器用なせいで、自分の意志や感情をつぶしていることに気づかないまま、息を吸うように目の前の人の期待に応えてしまって、ときどき、自分でも気づかないうちに、隠しておいたわたしが、わたしの知らないところで、勝手に飛び出してくる。そうやって暴発的にキレる自分がほとほと嫌になって逃げた、のかもしれないし、もうすこし自分にちゃんとかまってあげるために、ひとりになった、のかもしれないが、とにかくいまわたしは、家族とか部活とか、昔のように強い帰属感を得られる集団に属していない。地元に帰ってかつての濃い世界を思い出したあとは特に、自分で望んでゆるい繋がりを選んだはずなのに、ときどき寂しくなったりかなしくなったり不安になったりする。

 

それでも自分の直感を信じて、固く愛され守られていた世界を捨てて、ひとりでいま、月をみている。不安と自信、そういう二つの感情が、夜空の青さと、小さな三日月と、深瀬くんの声と、音楽と、一緒になって、そっか、最後は映画みたいに、わたしの選択が綺麗に収まってくれるんじゃない、っていう期待と願望が、花火みたいに眼前に上がった気がした。こういう時があるから、もうすこしだけ頑張ってみようって思うんだよね。

 

もしかすると三日月は、青さに守られているんじゃなくて、青さを空いっぱいの暗闇から守るために光っているのかもしれないね。
ベランダで曲が終わるまで、小さな光を見ていた。

 

 

 

 

*1:ある私立中学の略称がひらがなで入りますが身内バレこわいので伏せます